58
門倉は、庁舎の屋上にいた。
ちょっと、外の空気が吸いたい。庶務官にそう告げると、年配の庶務官の顔は
まさかという表情で恐ばった。勘違いをするな。その疑念を笑顔で一蹴して、
ここに来た。
思ったよりも、風が強い。吹き荒ぶ度に、身を斬られるような痛みがした。
今の門倉には、そんな痛みなど、蚊に刺されるほどにも感じなかった。
定例で行われる、国家公安委員会との会議の時間が迫っていた。議題は当然、
ようやく解決した新大久保の殺人事件と篭城事件の幹部の責任問題についてだ。
二つの事件で警察側の最終的な人的被害は、殉職者六名。負傷者四名。他に民間
人の死者二名。六名の死者のうちの四名はSITとSATという特殊部隊から
出た。警視庁は甚大な被害を被り、世間に不安と警察への不信感を与えること
になった。
被疑者は八名を殺害した前代未聞の凶悪犯と報道された。その身元については
不明。現在捜査中になっている。公式発表されたのは性別は男。年齢は二、三十
代となっている。
被疑者の遺体回収は、警備部長の迫と数名の警備部員で行われた。制圧したの
は警察の部隊ということになっている。
某国の脅威。今のところは、恐れていた事態は起きていない。それだけは安堵
した。情報は堅い門戸の奥に封じ込めれた。時間の経過とともに、様々な憶測は
飛び交うことにはなるだろうが、警察は無視を決め込むか、様々な形で権力を
行使するだろう。国益を守るという前提のもとに。
警視庁、いや警察機構始まって以来の惨事に対する、最高責任者としての門倉
の処遇もこれから審議される。戒告を受け、その後に退任。公団か財団の理事長
辺りのポストに流されるのが妥当な線だ。そうすることで、世間に、警察の姿勢
を示すのだ。殉職した警察官たちのことを考えれば、もう、警視総監という椅子
に未練はなかった。ここから、こうして管内百二の警察署、約四万の警察官に
睨みを効かせる機会も、それほどないだろう。
改めて、周囲を見渡した。澄み切った冬晴れの空の下、首都の街並みが拡がっ
ている。
警察官僚になり、目指した警視総監という頂に登りつめた門倉に、その景色は
澄み渡ってはいなかった。魑魅魍魎が蠢く魔界のような暗澹たる光景だった。今
自分はその魍魎たちに足を引っ張られて、堕ちていく。篭城犯。尾身。そして
、あの銀髪の巨人。
そう。ダビデの像のような荘厳な佇まいを見せる、社長を称する男。
社長が示していた、あの余裕。その正体がようやく見えた。
警視総監という絶対的な権力も、それを上回る権力の前では無力だということだ。
官房長官という後ろ盾。それを握っていたからこそ、危険を冒してまで、自分
たちの前に姿を晒した。結果、彼らは作戦に成功し、時の権力から信頼を増した。
これからも、彼らは闇の中でのさばっていくことだろう。
下唇を噛み締めた。血が滲むほどに噛んだ。
敗北。
門倉は彼らに完敗した。
59
公安部のフロアの片隅に置かれた打ち合わせ用のテーブルに、由田はいた。
こじんまりとしたテーブルの上には、ポータブル型のDVDプレイヤーが置かれて
いる。
テーブルに上で組んだ手の上に顎を乗せて、画面を見つめている彼は、普段の
深海魚のような仄暗い目付きではなく、好奇心に輝く子供のような目をしていた。
そこに映し出されたものは、彼の好奇心を大いに刺激した。
新大久保の篭城事件。今朝方、突入した特別編成部隊が建物内から出てくるところ
だった。警備部に連絡を取り、公安の捜査員を潜入させた。その捜査員に隠し撮り
させた映像だった。見た目はSATと同じ格好をしている。これなら、警察の部隊
が篭城犯を制圧したと説明はつく。どこの誰の発案かは判らないが、味な真似をして
くれる。今のところ、この特別編成部隊の正体は不明だった。現職の警察関係者で
ないことは、警備部からの報告で分かっていた。今回の警視庁上層部を揺るがした
謎の部隊の介入には何か裏があるのは間違いなかった。無意識に笑みがこぼれた。
「ミッキー、カム・ヒア―!」
濁った深海の底を揺るがすような大声を張り上げた。テンションがここまで
上がるのは久し振りだった。何事かと、フロア中の職員の目が由田に集まった。
もう一度叫ぼうと息を吸い込んだとき、小走りでやってきた三木が前に立った。
しだれ柳のような少ない髪を振り乱し、肩を上下して喘いでいる。
「いい走りっぷりだねぇ」由田は陰気な笑顔で、軽く手招きをした。
「何でしょう」
向かいに腰を降ろした三木は、額を付き合わせんばかりに、前にのめった。
「今朝、活躍した特別編成部隊の件だ」いつもの暗く低い声になった。
「恐らく、正体は、警察とは別の部外者だ」
由田の声は確信に満ちていた。
「どこから送られてきた部隊なのか調べろ。必要なら、金も人員も回してやる」
「わかりました」
それはどういうことなのか。余計なことは聞いてこない。由田の言う事は間違い
ない。そう思い込んでいる忠実な鼠は、言われたことは的確にこなす。言われた
ことしかやらない融通の効かないところはある。それでも手駒としては重宝して
いる。
昨日の、総監室での門倉との会話が引っ掛かっていた。
『依頼者から法外な報酬を得て、依頼された対象を殺害する集団の噂を訊いている
かね?』
あのときは、くだらない冗談と受け流した。今になって考えてみれば、門倉は
何かを知っていて、あのような質問をしてきたと考えるべきだ。尾身と門倉との
間で交わされた密約。その延長線上に特別編成部隊がある。
こいつは、おもしろいものが出てきそうだ。
由田の情報中毒者の血が騒ぎ立てていた。
60
遠くで、何かが鳴っていた。
脳髄に響いてくるその音は、鳥の囀りにしては耳障りだった音だった。
携帯電話の着信音。
ベッドに突っ伏し、掛け布団を被っていた
拓馬は左手を突き出した。ベッドの脇机に置いた携帯をひったくった。
着信の相手を確認すると、罵声を洩らした。
目覚めに聞きたくない声だった。モーニングコールを頼んだ覚えはない。
「あ、寝てた?」そう尋ねる高見沢の声は、明らかに確信犯的だった。
「その様子じゃ、ニュースは見てないよな。おせっかいかとは思ったんだけどさ、
ニュースを見たら、どうせ俺に連絡すると思ってさ。連絡しちゃった」
含みを持たせた言い回しに、もどかしさを募らせ、掛け布団を蹴飛ばして起き
上がった。窓から差し込める陽射しの眩しさに、目を細めた。壁の掛け時計を見る
と、布団に入ってから二時間も経っていない。束の間の休息を邪魔された怒りが
込み上げてきた。
今日明日は有休を取っていい。統括本部長からお墨付きまで貰い、有休届も出してある。
通話を切ってやろうかと、親指を通話ボタンに乗せた。
「芽吹花蓮」
唐突に出された名前。記憶の中から引っ張り出した。昨日殺したヤク中俳優の依頼者。
「彼女,死んだよ」
耳を疑った。その衝撃に、急に視界が乱れ霞み出した。
「俺も驚いちゃったよ。ニュースでは、自宅で下着姿で頭から血を流して倒れていた
としか伝えないからさ、俺の古巣にちょっと探りをいれたんだ…」
相槌を打つ余裕もなく、黙っていた。高見沢は勝手に話を進めた。
「昨日から、芽吹花蓮と連絡が取れなくなった会社の社員が、彼女の住んでいるマン
ションを尋ねたらしいんだ。そうしたら、リビングで下着姿の彼女が、ガラステーブル
に頭を突っ込んで倒れているのを発見したそうだ。救急車が駆けつけたときには、既
に心肺停止状態。搬送先の病院で死亡が確認された」
「他殺ですか?」動揺する中で、浮かんだのはそれだった。
「それがさァ」
高見沢は、くだらないネタで盛り上がる主婦の井戸端会議のようなノリだった。
「部屋の中に、ワインの瓶が散乱していたそうだよ。酔っ払って、瓶に足を滑らせた
はずみにガラステーブルに頭を突っ込んだんじゃないかという見方がある。まだ初動
の段階だから、はっきりしたことは分からない。ただ…」そこで、高見沢は言い淀ん
だ。
「ただ?…」先を促した。
「その部屋からMDMAが見つかった。しかも服用した形跡がある。アルコールが
回った 状況で麻薬を摂取。足元が覚束ない状況で、酒瓶に足を取られたとしても
仕方ないよ」
馬鹿馬鹿しい。
「あのシャネル姉ちゃん、邪魔者が死んだ祝杯を一人で挙げていたんじゃないの。
まぁ、死に方としては、なんとも間抜けだよな」
馬鹿馬鹿しい。
「こっちは金を貰っているから、問題はないがね。言い方は悪いけど、死人に口なし
ってやつだ。助かるよ」
本当に、どうしようもなく、どうしようもないくらい馬鹿馬鹿しかった。死んで
くれれば、その交わされた契約は永遠に白日の下に晒されることはない。自分の利益
を守るために金を払って、人を殺させた上、何の恩恵を授かることなく死んだあの女
は、全くの死に損だ。女に同情する気持ちは湧かなかった。ただ、何のために殺した
のか。自分のしたことが無駄になった。そのけだるい脱力感が堪らなかった。高見沢
の乾いた笑い声が、余計に脱力感の深い唸りの中に沈み込ませる。
「わざわざ、有難うございます」
気が滅入るような笑い声に付き合っていたくはなかった。
「おう。ゆっくり休―・・・ 」
叩きつけるように通話を切った。
ベッドの上に携帯を放り投げる。膝を抱えて壁にもたれた。膝の上に乗せた左の
拳に右手を被せ、額をつけた。
金のため。そう割り切って始めた仕事だった。人ひとりを殺したという罪悪感。
妻を壊されたやるせない、行き場のない怒りどれかというわけでなく、全部なの
だろう。全部が束になって、重く圧し掛かってくる。足元に差し込む陽射しを眺め
ているうちに気付いた。妻の美里がテロに巻き込まれたのも、こんな日だったこと
を。
ベッドから、床に足を降ろした。ベッドのそばに投げかけた鞄の中に手を突っ込ん
だ。
握り締めた手の中にあったのは、型落ちの傷だらけの携帯だった。
電源を入れ、留守電の着信リストを出す。
ぽつんと一件だけ、画面に出た。着信履歴は、あの事件が起きた日、時間帯になって
いる。相手は、美里。
携帯を耳に当て、窓の外を眺めた。
『拓さん。まだ寝てる?』
冬晴れの空に負けないぐらい明るく、そして澄んだ声は。
『もう起きなさいよ。休みだからって、いつまでも寝てんじゃないよ。
今ね、新宿駅。いつものことだけど、めちゃくちゃ混んでるよ。なんでこんなに人が
多いのかね。
最悪、最悪。うぇ―って感じ。
でもね。空は晴れてて、とってもいい天気だよ。窓から見てみなよ。
こんな空見てたら、海に行きたくなっちゃったよ。行きたいな、海。
ねえ。
ねぇねえ。今週末は房総の方にでも行こうか。
それじゃ、会社へ行ってきまーす』
これが、拓馬が耳にする妻の最後の声になった。この留守電を再生したのは、
病院に搬送された美里が集中治療室に入ってからだった。それ以後、携帯の機種
を替えても、この携帯だけは、片時も手放さなかった。
冬晴れの暖かい光が降り注いでくる。雑然と拡がる街並みの屋根は光を受けて、
きらきらと輝いていた。こんな天気なら、美里はお気に入りの房総の海を眺めている
筈だ。殆ど見ることのできない目で。
先のまったく見えない闇
ねえ、美里。
そこにはいない妻に語り掛ける。
俺は。
俺は一体。
どこにいっちゃうのかなあ。
美里は答えてくれない。
ただ。ただ、笑ってくれるだけだった。決して見せてくれる筈のない笑顔を見せて
くれる。
美里の顔が見たくなった。
妻は笑顔を奪われ、視力を奪われた。人間として生きることを奪われた。だが同時
に、この汚れ、歪んだ世界を見ることも感じることもなくなった。仕切りのない無菌
状態のまま、汚れることなく、彼女は生き続けている。
そんな妻の顔が無性に、ただ無性に見たかった。妻の顔を見ているときだけが、
救われる気がした。
拓馬は立ち上がった。
行こう。妻のところへ。
終
* 長らく、ご拝読ありがとうございました。
しばらく、休載致します。

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門倉は、庁舎の屋上にいた。
ちょっと、外の空気が吸いたい。庶務官にそう告げると、年配の庶務官の顔は
まさかという表情で恐ばった。勘違いをするな。その疑念を笑顔で一蹴して、
ここに来た。
思ったよりも、風が強い。吹き荒ぶ度に、身を斬られるような痛みがした。
今の門倉には、そんな痛みなど、蚊に刺されるほどにも感じなかった。
定例で行われる、国家公安委員会との会議の時間が迫っていた。議題は当然、
ようやく解決した新大久保の殺人事件と篭城事件の幹部の責任問題についてだ。
二つの事件で警察側の最終的な人的被害は、殉職者六名。負傷者四名。他に民間
人の死者二名。六名の死者のうちの四名はSITとSATという特殊部隊から
出た。警視庁は甚大な被害を被り、世間に不安と警察への不信感を与えること
になった。
被疑者は八名を殺害した前代未聞の凶悪犯と報道された。その身元については
不明。現在捜査中になっている。公式発表されたのは性別は男。年齢は二、三十
代となっている。
被疑者の遺体回収は、警備部長の迫と数名の警備部員で行われた。制圧したの
は警察の部隊ということになっている。
某国の脅威。今のところは、恐れていた事態は起きていない。それだけは安堵
した。情報は堅い門戸の奥に封じ込めれた。時間の経過とともに、様々な憶測は
飛び交うことにはなるだろうが、警察は無視を決め込むか、様々な形で権力を
行使するだろう。国益を守るという前提のもとに。
警視庁、いや警察機構始まって以来の惨事に対する、最高責任者としての門倉
の処遇もこれから審議される。戒告を受け、その後に退任。公団か財団の理事長
辺りのポストに流されるのが妥当な線だ。そうすることで、世間に、警察の姿勢
を示すのだ。殉職した警察官たちのことを考えれば、もう、警視総監という椅子
に未練はなかった。ここから、こうして管内百二の警察署、約四万の警察官に
睨みを効かせる機会も、それほどないだろう。
改めて、周囲を見渡した。澄み切った冬晴れの空の下、首都の街並みが拡がっ
ている。
警察官僚になり、目指した警視総監という頂に登りつめた門倉に、その景色は
澄み渡ってはいなかった。魑魅魍魎が蠢く魔界のような暗澹たる光景だった。今
自分はその魍魎たちに足を引っ張られて、堕ちていく。篭城犯。尾身。そして
、あの銀髪の巨人。
そう。ダビデの像のような荘厳な佇まいを見せる、社長を称する男。
社長が示していた、あの余裕。その正体がようやく見えた。
警視総監という絶対的な権力も、それを上回る権力の前では無力だということだ。
官房長官という後ろ盾。それを握っていたからこそ、危険を冒してまで、自分
たちの前に姿を晒した。結果、彼らは作戦に成功し、時の権力から信頼を増した。
これからも、彼らは闇の中でのさばっていくことだろう。
下唇を噛み締めた。血が滲むほどに噛んだ。
敗北。
門倉は彼らに完敗した。
59
公安部のフロアの片隅に置かれた打ち合わせ用のテーブルに、由田はいた。
こじんまりとしたテーブルの上には、ポータブル型のDVDプレイヤーが置かれて
いる。
テーブルに上で組んだ手の上に顎を乗せて、画面を見つめている彼は、普段の
深海魚のような仄暗い目付きではなく、好奇心に輝く子供のような目をしていた。
そこに映し出されたものは、彼の好奇心を大いに刺激した。
新大久保の篭城事件。今朝方、突入した特別編成部隊が建物内から出てくるところ
だった。警備部に連絡を取り、公安の捜査員を潜入させた。その捜査員に隠し撮り
させた映像だった。見た目はSATと同じ格好をしている。これなら、警察の部隊
が篭城犯を制圧したと説明はつく。どこの誰の発案かは判らないが、味な真似をして
くれる。今のところ、この特別編成部隊の正体は不明だった。現職の警察関係者で
ないことは、警備部からの報告で分かっていた。今回の警視庁上層部を揺るがした
謎の部隊の介入には何か裏があるのは間違いなかった。無意識に笑みがこぼれた。
「ミッキー、カム・ヒア―!」
濁った深海の底を揺るがすような大声を張り上げた。テンションがここまで
上がるのは久し振りだった。何事かと、フロア中の職員の目が由田に集まった。
もう一度叫ぼうと息を吸い込んだとき、小走りでやってきた三木が前に立った。
しだれ柳のような少ない髪を振り乱し、肩を上下して喘いでいる。
「いい走りっぷりだねぇ」由田は陰気な笑顔で、軽く手招きをした。
「何でしょう」
向かいに腰を降ろした三木は、額を付き合わせんばかりに、前にのめった。
「今朝、活躍した特別編成部隊の件だ」いつもの暗く低い声になった。
「恐らく、正体は、警察とは別の部外者だ」
由田の声は確信に満ちていた。
「どこから送られてきた部隊なのか調べろ。必要なら、金も人員も回してやる」
「わかりました」
それはどういうことなのか。余計なことは聞いてこない。由田の言う事は間違い
ない。そう思い込んでいる忠実な鼠は、言われたことは的確にこなす。言われた
ことしかやらない融通の効かないところはある。それでも手駒としては重宝して
いる。
昨日の、総監室での門倉との会話が引っ掛かっていた。
『依頼者から法外な報酬を得て、依頼された対象を殺害する集団の噂を訊いている
かね?』
あのときは、くだらない冗談と受け流した。今になって考えてみれば、門倉は
何かを知っていて、あのような質問をしてきたと考えるべきだ。尾身と門倉との
間で交わされた密約。その延長線上に特別編成部隊がある。
こいつは、おもしろいものが出てきそうだ。
由田の情報中毒者の血が騒ぎ立てていた。
60
遠くで、何かが鳴っていた。
脳髄に響いてくるその音は、鳥の囀りにしては耳障りだった音だった。
携帯電話の着信音。
ベッドに突っ伏し、掛け布団を被っていた
拓馬は左手を突き出した。ベッドの脇机に置いた携帯をひったくった。
着信の相手を確認すると、罵声を洩らした。
目覚めに聞きたくない声だった。モーニングコールを頼んだ覚えはない。
「あ、寝てた?」そう尋ねる高見沢の声は、明らかに確信犯的だった。
「その様子じゃ、ニュースは見てないよな。おせっかいかとは思ったんだけどさ、
ニュースを見たら、どうせ俺に連絡すると思ってさ。連絡しちゃった」
含みを持たせた言い回しに、もどかしさを募らせ、掛け布団を蹴飛ばして起き
上がった。窓から差し込める陽射しの眩しさに、目を細めた。壁の掛け時計を見る
と、布団に入ってから二時間も経っていない。束の間の休息を邪魔された怒りが
込み上げてきた。
今日明日は有休を取っていい。統括本部長からお墨付きまで貰い、有休届も出してある。
通話を切ってやろうかと、親指を通話ボタンに乗せた。
「芽吹花蓮」
唐突に出された名前。記憶の中から引っ張り出した。昨日殺したヤク中俳優の依頼者。
「彼女,死んだよ」
耳を疑った。その衝撃に、急に視界が乱れ霞み出した。
「俺も驚いちゃったよ。ニュースでは、自宅で下着姿で頭から血を流して倒れていた
としか伝えないからさ、俺の古巣にちょっと探りをいれたんだ…」
相槌を打つ余裕もなく、黙っていた。高見沢は勝手に話を進めた。
「昨日から、芽吹花蓮と連絡が取れなくなった会社の社員が、彼女の住んでいるマン
ションを尋ねたらしいんだ。そうしたら、リビングで下着姿の彼女が、ガラステーブル
に頭を突っ込んで倒れているのを発見したそうだ。救急車が駆けつけたときには、既
に心肺停止状態。搬送先の病院で死亡が確認された」
「他殺ですか?」動揺する中で、浮かんだのはそれだった。
「それがさァ」
高見沢は、くだらないネタで盛り上がる主婦の井戸端会議のようなノリだった。
「部屋の中に、ワインの瓶が散乱していたそうだよ。酔っ払って、瓶に足を滑らせた
はずみにガラステーブルに頭を突っ込んだんじゃないかという見方がある。まだ初動
の段階だから、はっきりしたことは分からない。ただ…」そこで、高見沢は言い淀ん
だ。
「ただ?…」先を促した。
「その部屋からMDMAが見つかった。しかも服用した形跡がある。アルコールが
回った 状況で麻薬を摂取。足元が覚束ない状況で、酒瓶に足を取られたとしても
仕方ないよ」
馬鹿馬鹿しい。
「あのシャネル姉ちゃん、邪魔者が死んだ祝杯を一人で挙げていたんじゃないの。
まぁ、死に方としては、なんとも間抜けだよな」
馬鹿馬鹿しい。
「こっちは金を貰っているから、問題はないがね。言い方は悪いけど、死人に口なし
ってやつだ。助かるよ」
本当に、どうしようもなく、どうしようもないくらい馬鹿馬鹿しかった。死んで
くれれば、その交わされた契約は永遠に白日の下に晒されることはない。自分の利益
を守るために金を払って、人を殺させた上、何の恩恵を授かることなく死んだあの女
は、全くの死に損だ。女に同情する気持ちは湧かなかった。ただ、何のために殺した
のか。自分のしたことが無駄になった。そのけだるい脱力感が堪らなかった。高見沢
の乾いた笑い声が、余計に脱力感の深い唸りの中に沈み込ませる。
「わざわざ、有難うございます」
気が滅入るような笑い声に付き合っていたくはなかった。
「おう。ゆっくり休―・・・ 」
叩きつけるように通話を切った。
ベッドの上に携帯を放り投げる。膝を抱えて壁にもたれた。膝の上に乗せた左の
拳に右手を被せ、額をつけた。
金のため。そう割り切って始めた仕事だった。人ひとりを殺したという罪悪感。
妻を壊されたやるせない、行き場のない怒りどれかというわけでなく、全部なの
だろう。全部が束になって、重く圧し掛かってくる。足元に差し込む陽射しを眺め
ているうちに気付いた。妻の美里がテロに巻き込まれたのも、こんな日だったこと
を。
ベッドから、床に足を降ろした。ベッドのそばに投げかけた鞄の中に手を突っ込ん
だ。
握り締めた手の中にあったのは、型落ちの傷だらけの携帯だった。
電源を入れ、留守電の着信リストを出す。
ぽつんと一件だけ、画面に出た。着信履歴は、あの事件が起きた日、時間帯になって
いる。相手は、美里。
携帯を耳に当て、窓の外を眺めた。
『拓さん。まだ寝てる?』
冬晴れの空に負けないぐらい明るく、そして澄んだ声は。
『もう起きなさいよ。休みだからって、いつまでも寝てんじゃないよ。
今ね、新宿駅。いつものことだけど、めちゃくちゃ混んでるよ。なんでこんなに人が
多いのかね。
最悪、最悪。うぇ―って感じ。
でもね。空は晴れてて、とってもいい天気だよ。窓から見てみなよ。
こんな空見てたら、海に行きたくなっちゃったよ。行きたいな、海。
ねえ。
ねぇねえ。今週末は房総の方にでも行こうか。
それじゃ、会社へ行ってきまーす』
これが、拓馬が耳にする妻の最後の声になった。この留守電を再生したのは、
病院に搬送された美里が集中治療室に入ってからだった。それ以後、携帯の機種
を替えても、この携帯だけは、片時も手放さなかった。
冬晴れの暖かい光が降り注いでくる。雑然と拡がる街並みの屋根は光を受けて、
きらきらと輝いていた。こんな天気なら、美里はお気に入りの房総の海を眺めている
筈だ。殆ど見ることのできない目で。
先のまったく見えない闇
ねえ、美里。
そこにはいない妻に語り掛ける。
俺は。
俺は一体。
どこにいっちゃうのかなあ。
美里は答えてくれない。
ただ。ただ、笑ってくれるだけだった。決して見せてくれる筈のない笑顔を見せて
くれる。
美里の顔が見たくなった。
妻は笑顔を奪われ、視力を奪われた。人間として生きることを奪われた。だが同時
に、この汚れ、歪んだ世界を見ることも感じることもなくなった。仕切りのない無菌
状態のまま、汚れることなく、彼女は生き続けている。
そんな妻の顔が無性に、ただ無性に見たかった。妻の顔を見ているときだけが、
救われる気がした。
拓馬は立ち上がった。
行こう。妻のところへ。
終
* 長らく、ご拝読ありがとうございました。
しばらく、休載致します。
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56
車が走り出すと、拓馬は、全身を覆っていた緊張感が抜けていきそうになっ
た。
あっさりしたものだった。制圧完了の連絡を終え、待っていると現れたのは、
ヒグマの警備部長と事務屋の二人だった。
警備部長は、緊張と興奮で上気したように顔を赤くしていた。拓馬の姿を認め
るなり、「やったのか?」と問いかけてきた。
「制圧完了。対象は射殺しました」
「被疑者はどこだ?案内しろ」迫は、せっかちに歩き出した。
有難う。よくやってくれた、と手を握り締められるのを期待していたわけでは
ない。所詮、自分たちは、こういう存在なのだと認識した。
拓馬が死体のある場所に案内すると、予想通りの反応を示した。いや、予想以上
の取り乱し様だった。ヒグマと事務屋のうろたえた様子をしばらく傍観していた。
死体から顔を上げた迫が、そばに突っ立ている拓馬に気付いた。
まだ、いたのか?そんな眼差しをしていた。
野良犬でも追い払うように、「もういい。行け」と顎で示した。
「さ、、こちらへどうぞ」
そそくさと事務屋が、元来た方向へと誘導する。
「撤収してよろしいのですか?」分かりきったことと思いながら、皮肉を込めて
訊いた。
迫は忌々しそうな目付きで睨み付けた。
「そういう話になっているんだろう」
くだらないことを聞くな。三角眼が、そう語っていた。
結局、最後まで労いの言葉はなかった。
扉から外に出る瞬間、胃が絞られるような痛みが走った。
景色が止まる。こちらを狙う無数の銃口。一斉に銃声が轟く。そして、闇に
包まれていく。勝手に肺が空気を吸い込む。目一杯に吸い込んだ空気を吐き出す。
先導役の堀内の背中には気負った気配は微塵もなく、さっさと外に出てしまっ
た。後に続いて建物から出ても、取り囲まれるような様子はなかった。入れ違い
に待機していたSATの部隊がなだれ込んでいった。外に展開している警官たち
は、それぞれの仕事に従事して、こちらに気を留めている様子はない。ほっと
しながらも、気は抜けなかった。まだ、安全圏には出ていない。
会社を出るとき、課長はこう言っていた。余分な行動はするな。用事が済み次第、
さっさと戻れ。公安がお前らを監視している。元いた古巣のことだけあり、課長
の言葉には信憑性がある。さりげなく周囲を見たが、それらしい気配はなかった。
こうしている間にも自分たちの姿は、どこからか画像に収められているのかも
しれない。それは想定の範囲内だった。公安がPMCCの存在を知り、内定を
かけてくるのは確実だと、高見沢は言っていた。それでも、こんな危険な仕事を
引き受けたのには勝算があったからだ。高見沢は公安に協力者を囲っている。
公安が内定先に「工作」=協力者を作る、をしたように公安に「工作」を仕掛け
ていた。公安警察だけではなく、防衛省、公安調査庁と国内の権力組織の中途
退職者を入社させ、各組織に「工作」の根を張っている。T・I・Sの磐石な
基盤はこうして構築されていた。
部下たちを振り返った。ヘルメットに覆面はつけたままだったが、シートに
も垂れる身体からは、さすがに疲労が見て取れた。無理もない。三日近く、
皆、ろくに睡眠を取らずに働いていた。拓馬自身、現場が遠のくにつれて、
疲れを感じてきた。
身体がつんのめった。急ブレーキが掛かった。男は両腕を拡げた。
何事かと前を見ると、フロントグラス越しに仁王立ちで立ち塞がっている男が
見えた。暗色のウィンドブレーカー。胸元にSITの文字が見えた。
秋奈から鋭い舌打ちが飛んだ。一斉に銃を構える金属音が車内に響く。
周囲を見た。囲まれている可能性があった。
レッグホルスターの拳銃に、右手を掛けた。
銃を構える朴たちを振り返り、頷いてみせた。意を決して、ドアを開いた。
「何でしょう?」
その男を見据えた。
「教えてくれっ!」
いきなりきた。取り乱したような表情の中で、その目は避けられないほどに
真剣だった。
「あんたら、一体何者なんだ?」血を吐くような叫びに似た声だった。
「警視庁特殊捜査班の和だ。あんたたちがどこの機関の人間なのか、それだけ
でいい。教えてくれ」
すがるような必死な視線に目を逸らすことができず、その目を見返した。
「お答えすることはできません」
冷淡に突き放した。
「我々は守秘事項になっております。その点について、お答えすることはできませ
ん。あなたも同様の立場におられるなら、そこのところをご理解願います」」
和と名乗った男は、上目使いで無念そうに見つめている。その姿に、猛然と抗議
してきたSATのゴリラが重なった。胸が締め付けるように痛む。自分たちは、
この男たちの誇りを踏み躙った。
和はふと、吹っ切れたように目を伏せた。
「消えろ…」
聞き取れないほど、ちいさな声だった。反応しない拓馬に業を煮やし、声を荒げた。
「消えろっ!」
自然に手が動いた。
和に向け、敬礼をした。
一瞬、和は、その目を見開いた。
拓馬はドアを閉めた。車が走り出す。
遠ざかっていく男はただ、こちらを睨みつけていた。
不覚だった。敬礼などすれば、それなりの機関の所属している、または在籍して
いたことを示す。
ミスったな。
そう呟き、自嘲した。
やっぱり、俺はゴルゴ13にはなれない。
57
つけっ放しになっているテレビが、急に騒がしくなった。何事か起きている
らしい。それでも、視線を向けるのが、億劫だった。興味もない。今の花蓮
にはどうでもいいことだった。
絨毯の上に膝を抱えるようにして座り、頭をソファにもたげていた。ガラス
テーブルの上に、くしゃくしゃに丸まったビニールの小袋が虫の死骸のように
転がっていた。
身体が浮いていくような気がしていた。背中から羽が…。そう、天使がつけて
いる羽が生えてきて羽ばたいているような感覚だった。その高揚感に、自然と
笑みがこぼれた。
さっきまでの虚しさも悲しみも、どこかへ消えてしまった。この浮き立つような
昂りは何なのだろう。このまま窓から飛び出して、ピーターパンのように空を舞う
ことができそうだ。こんな素晴らしい世界があったなんて。氷室がのめり込んだ
理由が分かった。身体の芯が熱かった。火照るように疼いた。氷室が欲しかった。
氷室と抱き合いたかった。
「無我っ!」
思わず、その名を叫んだ。
会いたかった。会いたかった。
満ち足りた、弾むような気分なのに何故か、涙が頬を伝った。
「花蓮ちゃん」
涙を拭うと、目の前で氷室が見下ろしていた。
「どう、気分は?俺の言った通りでしょ」
白い歯を見せ、無邪気に微笑んだ。
花蓮は悲鳴とも溜め息とも似つかない声を上げた。
氷室が手を差し延べてきた。
「さあ、ベッドに行こうよ。いつもみたいに愛し合おうよ」
その手を掴もうと、花蓮は手を伸ばした。指先が触れるかと思いきや、
すっと離れていく。氷室が手を引いたのだ。いたずらを楽しむかのように
笑う彼が遠のいていく。
「待って。待ってよ!」
離れていく。氷室が離れていく。離したくない。もう離したくない。
「行かないでっ!待ってったら!」
花蓮は立ち上がった。身体が軽い。浮いているようだった。
羽だ。天使のように、あたしは空を飛べる。
氷室。その姿は宙にあった。天井が透けて見えた。今にも消えそうだ。
それでも、微笑みながら両手を広げて、花蓮を迎え入れようとしている。
その胸に飛び込もうと、花蓮は駆け出した。
足が何かを踏んだ。と感じたときには、身体が宙を舞っていた。
飛べるじゃない、あたし。
飛んでる。飛んでる。まるで、ピーターパンだ。あんな風に、自由に飛び回ること
ができる。
氷室が近づく。
もうすぐ。
もうすぐ。
もう…、もうそこまで…。
その笑顔が目の前に迫ったとき、身体が落ちていった。
羽は消えていた。氷室を掴もうと両手を突き出した。手は虚しく、彼の身体を
すり抜けた。宙を握ったまま、急降下していく。
爆発したような衝撃。
後頭部に喰らった。目の前を、きらきらと無数のダイヤモンドが舞い踊っている。
まるでプラネタリウムの中にいるようだった。
無数の煌き。その中から、天使のように、氷室が降りてきた。
「行こう」
ダイヤの光が消えていく。
ひとつ。ふたつ。
闇に吸い込まれていくように、周囲から次々に消えていく。
侵食するように、黒い、ドス黒い闇が覆ってきた。氷室の顔も闇に溶け込んでいく。
「待って!あたしも連れていって!」
不安に駆られて、声を上げた。
優しい、彼の声だけは聞こえてくる。
さぁ、行こう。花蓮ちゃん。
続 く
* 次回、来週日曜の掲載予定です。

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車が走り出すと、拓馬は、全身を覆っていた緊張感が抜けていきそうになっ
た。
あっさりしたものだった。制圧完了の連絡を終え、待っていると現れたのは、
ヒグマの警備部長と事務屋の二人だった。
警備部長は、緊張と興奮で上気したように顔を赤くしていた。拓馬の姿を認め
るなり、「やったのか?」と問いかけてきた。
「制圧完了。対象は射殺しました」
「被疑者はどこだ?案内しろ」迫は、せっかちに歩き出した。
有難う。よくやってくれた、と手を握り締められるのを期待していたわけでは
ない。所詮、自分たちは、こういう存在なのだと認識した。
拓馬が死体のある場所に案内すると、予想通りの反応を示した。いや、予想以上
の取り乱し様だった。ヒグマと事務屋のうろたえた様子をしばらく傍観していた。
死体から顔を上げた迫が、そばに突っ立ている拓馬に気付いた。
まだ、いたのか?そんな眼差しをしていた。
野良犬でも追い払うように、「もういい。行け」と顎で示した。
「さ、、こちらへどうぞ」
そそくさと事務屋が、元来た方向へと誘導する。
「撤収してよろしいのですか?」分かりきったことと思いながら、皮肉を込めて
訊いた。
迫は忌々しそうな目付きで睨み付けた。
「そういう話になっているんだろう」
くだらないことを聞くな。三角眼が、そう語っていた。
結局、最後まで労いの言葉はなかった。
扉から外に出る瞬間、胃が絞られるような痛みが走った。
景色が止まる。こちらを狙う無数の銃口。一斉に銃声が轟く。そして、闇に
包まれていく。勝手に肺が空気を吸い込む。目一杯に吸い込んだ空気を吐き出す。
先導役の堀内の背中には気負った気配は微塵もなく、さっさと外に出てしまっ
た。後に続いて建物から出ても、取り囲まれるような様子はなかった。入れ違い
に待機していたSATの部隊がなだれ込んでいった。外に展開している警官たち
は、それぞれの仕事に従事して、こちらに気を留めている様子はない。ほっと
しながらも、気は抜けなかった。まだ、安全圏には出ていない。
会社を出るとき、課長はこう言っていた。余分な行動はするな。用事が済み次第、
さっさと戻れ。公安がお前らを監視している。元いた古巣のことだけあり、課長
の言葉には信憑性がある。さりげなく周囲を見たが、それらしい気配はなかった。
こうしている間にも自分たちの姿は、どこからか画像に収められているのかも
しれない。それは想定の範囲内だった。公安がPMCCの存在を知り、内定を
かけてくるのは確実だと、高見沢は言っていた。それでも、こんな危険な仕事を
引き受けたのには勝算があったからだ。高見沢は公安に協力者を囲っている。
公安が内定先に「工作」=協力者を作る、をしたように公安に「工作」を仕掛け
ていた。公安警察だけではなく、防衛省、公安調査庁と国内の権力組織の中途
退職者を入社させ、各組織に「工作」の根を張っている。T・I・Sの磐石な
基盤はこうして構築されていた。
部下たちを振り返った。ヘルメットに覆面はつけたままだったが、シートに
も垂れる身体からは、さすがに疲労が見て取れた。無理もない。三日近く、
皆、ろくに睡眠を取らずに働いていた。拓馬自身、現場が遠のくにつれて、
疲れを感じてきた。
身体がつんのめった。急ブレーキが掛かった。男は両腕を拡げた。
何事かと前を見ると、フロントグラス越しに仁王立ちで立ち塞がっている男が
見えた。暗色のウィンドブレーカー。胸元にSITの文字が見えた。
秋奈から鋭い舌打ちが飛んだ。一斉に銃を構える金属音が車内に響く。
周囲を見た。囲まれている可能性があった。
レッグホルスターの拳銃に、右手を掛けた。
銃を構える朴たちを振り返り、頷いてみせた。意を決して、ドアを開いた。
「何でしょう?」
その男を見据えた。
「教えてくれっ!」
いきなりきた。取り乱したような表情の中で、その目は避けられないほどに
真剣だった。
「あんたら、一体何者なんだ?」血を吐くような叫びに似た声だった。
「警視庁特殊捜査班の和だ。あんたたちがどこの機関の人間なのか、それだけ
でいい。教えてくれ」
すがるような必死な視線に目を逸らすことができず、その目を見返した。
「お答えすることはできません」
冷淡に突き放した。
「我々は守秘事項になっております。その点について、お答えすることはできませ
ん。あなたも同様の立場におられるなら、そこのところをご理解願います」」
和と名乗った男は、上目使いで無念そうに見つめている。その姿に、猛然と抗議
してきたSATのゴリラが重なった。胸が締め付けるように痛む。自分たちは、
この男たちの誇りを踏み躙った。
和はふと、吹っ切れたように目を伏せた。
「消えろ…」
聞き取れないほど、ちいさな声だった。反応しない拓馬に業を煮やし、声を荒げた。
「消えろっ!」
自然に手が動いた。
和に向け、敬礼をした。
一瞬、和は、その目を見開いた。
拓馬はドアを閉めた。車が走り出す。
遠ざかっていく男はただ、こちらを睨みつけていた。
不覚だった。敬礼などすれば、それなりの機関の所属している、または在籍して
いたことを示す。
ミスったな。
そう呟き、自嘲した。
やっぱり、俺はゴルゴ13にはなれない。
57
つけっ放しになっているテレビが、急に騒がしくなった。何事か起きている
らしい。それでも、視線を向けるのが、億劫だった。興味もない。今の花蓮
にはどうでもいいことだった。
絨毯の上に膝を抱えるようにして座り、頭をソファにもたげていた。ガラス
テーブルの上に、くしゃくしゃに丸まったビニールの小袋が虫の死骸のように
転がっていた。
身体が浮いていくような気がしていた。背中から羽が…。そう、天使がつけて
いる羽が生えてきて羽ばたいているような感覚だった。その高揚感に、自然と
笑みがこぼれた。
さっきまでの虚しさも悲しみも、どこかへ消えてしまった。この浮き立つような
昂りは何なのだろう。このまま窓から飛び出して、ピーターパンのように空を舞う
ことができそうだ。こんな素晴らしい世界があったなんて。氷室がのめり込んだ
理由が分かった。身体の芯が熱かった。火照るように疼いた。氷室が欲しかった。
氷室と抱き合いたかった。
「無我っ!」
思わず、その名を叫んだ。
会いたかった。会いたかった。
満ち足りた、弾むような気分なのに何故か、涙が頬を伝った。
「花蓮ちゃん」
涙を拭うと、目の前で氷室が見下ろしていた。
「どう、気分は?俺の言った通りでしょ」
白い歯を見せ、無邪気に微笑んだ。
花蓮は悲鳴とも溜め息とも似つかない声を上げた。
氷室が手を差し延べてきた。
「さあ、ベッドに行こうよ。いつもみたいに愛し合おうよ」
その手を掴もうと、花蓮は手を伸ばした。指先が触れるかと思いきや、
すっと離れていく。氷室が手を引いたのだ。いたずらを楽しむかのように
笑う彼が遠のいていく。
「待って。待ってよ!」
離れていく。氷室が離れていく。離したくない。もう離したくない。
「行かないでっ!待ってったら!」
花蓮は立ち上がった。身体が軽い。浮いているようだった。
羽だ。天使のように、あたしは空を飛べる。
氷室。その姿は宙にあった。天井が透けて見えた。今にも消えそうだ。
それでも、微笑みながら両手を広げて、花蓮を迎え入れようとしている。
その胸に飛び込もうと、花蓮は駆け出した。
足が何かを踏んだ。と感じたときには、身体が宙を舞っていた。
飛べるじゃない、あたし。
飛んでる。飛んでる。まるで、ピーターパンだ。あんな風に、自由に飛び回ること
ができる。
氷室が近づく。
もうすぐ。
もうすぐ。
もう…、もうそこまで…。
その笑顔が目の前に迫ったとき、身体が落ちていった。
羽は消えていた。氷室を掴もうと両手を突き出した。手は虚しく、彼の身体を
すり抜けた。宙を握ったまま、急降下していく。
爆発したような衝撃。
後頭部に喰らった。目の前を、きらきらと無数のダイヤモンドが舞い踊っている。
まるでプラネタリウムの中にいるようだった。
無数の煌き。その中から、天使のように、氷室が降りてきた。
「行こう」
ダイヤの光が消えていく。
ひとつ。ふたつ。
闇に吸い込まれていくように、周囲から次々に消えていく。
侵食するように、黒い、ドス黒い闇が覆ってきた。氷室の顔も闇に溶け込んでいく。
「待って!あたしも連れていって!」
不安に駆られて、声を上げた。
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銃声。数発が重なった。
朴と顔を合わせた。前から行く。そう、合図を送ってきた。拓馬も了解のサイン
を出すと後ろに下がった。探索の残っていた右側の通路だった。
手前で、瀬名がしゃがみ込んでいた。短機関銃を通路の先に向けている。拓馬を
認めると奥を指さした。
「中央通路の制御室、確認を頼む」
彼に指示を出し、奥へ進む。
床に、ぽつんと黒い塊が落ちていた。
ダットサイトがついたベレッタ。SITの使っている銃だ。スライドが開いた
状態になっている。弾丸は撃ち尽くされていた。その先に血痕が落ちている。照明
の下で、生々しいほどにきれいな赤い色をしていた。血の筋は、奥へと続いている。
赤い線は生命の尽きていくように、細く、途切れ途切れにかろうじて延びていた。
その先に秋奈の背中が見えた。向かいには朴がいた。立ち尽くす二人の視線は、下
を向いている。秋奈の肩越しに、下を覗き込んだ。
誰かが仰向けに倒れていた。
その顔の白さに、目を奪われた。
こいつなのか?その姿を見た率直な感想だった。巣窟に潜む凶暴な魔物の正体が、
そこにあった。
無造作に後ろへ束ねた黒髪の下にある顔は、まだ十代と思えるほど、あどけなか
った。学校の制服を着て、鞄を提げていれば、そこら辺にいる真面目な女子学生に
見える。大勢の警察官の命を奪った殺人鬼の正体がこの少女だったとは。なんとも
やり切れない思いが、足元からじわじわと侵食してくる。
上下黒ずくめの服を着た身体は、小さく華奢だった。艶やかな黒髪を後ろに
束ねていなければ、少年と見間違いそうになる。右手に細身のナイフが握られて
いた。刃には血がこびり付いている。しっかりと握りしめた手は、最後の最後
まで抵抗し続けた執念を誇示していた。床に染み渡るように、背中から緩やかな
赤い輪が拡がっていく。
「出会い頭にいきなり発砲してきました」
秋奈は緊張しているのか、普段の彼らしくない低く、掠れた声だった。
「相手はすぐに弾切れになり、銃を捨てて逃げました。その背中に二発、撃ち
込みました」
瀬名がやってきた。
「ヘルメットと銃は、自分が潜んでいるようにみせる偽装でしたよ」
報告しながら、足元の光景に目にくれた。その目が固まった。
「このコ…なんですよね?」
声が戸惑いに揺れていた。「SITやSAT相手に殺しまくっていたのは…」
瀬名が、今の心境を代弁してくれた。それに答える気力もなく、ただ頷いてみせた。
秋奈が朴に声をかけた。「朴やん、大丈夫か?」
下を見つめたまま朴は、手でOKを示した。その手でヘルメットの側面を突付いた。
斜め一文字に傷がついている。銃弾が掠めた跡だ。間一髪。獣のつめ跡のような傷が
その状況を物語っていた。さっきから食い入るように女を見つめたままだった。あまり
にも見つめているので心配になり、声を掛けた。
「朴やん、お疲れさん」
彼に反応はなかった。手を伸ばし、その肩をぽんと軽く叩いた。
「羨ましいです」
彼が口にしたことの意味が分からず、その顔を見た。「こんな死に方ができた彼女が、
俺には羨ましいです」
大きなことを成し遂げ、死んだことに共感しているのか。
「俺には理解できんね」
首を横に振る拓馬に、朴は物寂びしそうに鼻を鳴らした。
少女の死に顔をよく見た、大きな目標を成し遂げたような、満足感と安らかさが
あった。それを見ていると、虚しさが襲ってきた。テロ事案を収めた達成感はなか
った。目標をこなすことに、死体の数が増えてくる。それに比例するように虚しさ
も募っていく。それだけだった。
いつまでも、感傷に浸ってはいられなかった。最も重大な関門が待っていた。
「各自、異常はないか?」拓馬の問いかけに、全員から異常なしの声が返ってきた。
「撤収しよう」
拓馬は無線で、堀内を呼び出した。
飛びつくように無線に出た堀内へ、制圧完了を伝えた。報告を聞いた堀内は、
浮き足立った様子で「警備部長に替わります」と言い放ち、そのまま待たされた。
ヒグマのような体格をした警備部長を思い出した。あの融通の利かなそうなヒグマ
が、篭城犯の正体を見て、さぞかしうろたえるだろうと思うと、いささかうんざり
してきた。
55
銃声が鳴り止んで、しばらく経つ。
制圧完了の知らせは、まだ来なかった。
「まさか、また失敗したんじゃ…」隣の副総監が蒼ざめた顔で呟いた。
不安を色濃くする周囲の中、門倉は静かに現場からの報告を待った。
横のモニターでも、テレビ中継のレポーターたちが蜂の巣を突付いたように、
騒ぎ立てている。
「迫です」
その知らせは、不意にきた。
「制圧しました。被疑者は射殺されました。被疑者は死亡。繰り返します被疑者は
死亡」
おお、という歓声が、突き上げるように上がった。沸き立つ周囲に、門倉は呑み
込まれる事はなかった。制圧完了よりも、重要なことがあった。
「特別編成部隊はどうなった?」
「全員無事です。現在、徹収に入っています。車に乗り込み、間もなく出発します」
「そうか。ご苦労様」
喜びも安堵もなかった。疲労と敗北感が、双肩に重く圧し掛かってくる。交信を
終えると、予定していた行動に移った。携帯電話を出すと、和を呼び出した。
「突入作戦は成功した。篭城犯は制圧された」
「こちらも確認しました」
「間もなく、特別編成部隊がそちらに向かう」
「車両は判っております。標的を確認次第、確保致します―」
「総監っ!」
オペレーターのひとりから声が掛かった。
「官房長官からお電話です!」
ぎくりとした。なぜ、こんなときに?
意図的に電話をしてきたとしか思えなかった。
「至急のとのことです!」
諦めて、内線ボタンを解除した。
「突入作戦成功おめでとう」その間延びした話し方に苛立った。今はそれどころ
ではない。
「ありがとうございます。申し訳ありませんが、今は立て込んでおりまして。改めて
こちらからご報告を差し上げます」
「うん、わかってるよ。ただ、ひと言だけ言いたくてね」
極めて穏やかながら、これだけは言わせろ。そんな強引さがあった。
「彼ら、ちゃんと返してね。拘束なんてしちゃだめだよ」
携帯を落としそうになった。彼らが誰を指すか、言われるまでもない。
「私の立場。君の立場、警察の立場。考えてね。彼らを拘束しようなんてことに
なったら大変なことになるからね」
悪魔の呪詛のように聞こえてきた。山羊の顔をした、あのパフォメッドが迫ってくる。
返す言葉がない。ただ沈黙するしかなかった。
「君も忙しそうだから。じゃあな」向こうから、さっさと切られた。
眩暈が襲ってきた。総合対策室の壁が吹き飛び、幹部やスタッフも消え失せた。
門倉は何もない無の空間に、ひとり佇んでいた。
手の内を読まれていた。尾身は、門倉がこういう行動に出るのを予測していた。
議員会館での、尾身の目を思い出した。
俺の目は何でも、お見通しだぞ。
警察という組織にいるうちは、そして、あの悪魔が政界に君臨している限りは
逃げることはできない。何をしようと、その先には彼の手が立ち塞がる。
総監。遠くから誰かが呼んでいる。急に周囲の喧騒が戻ってきた。
「総監っ!」
携帯から、和が叫んでいる。
汗で濡れた携帯を持ち直した。唾を呑み込んでから、その言葉を発した。
「中止だ…」
「はいっ!?」
甲高い和の声は、混乱を呈していた。
「中止だ。確保は取りやめにする」
和の息を呑む音が、ここまで聞こえてきた。
「どういうことですか?奴らはもうすぐ来ます!ここで中止など有り得ないでしょう!」
悲鳴に近い叫びだった。
「状況が変わった。そのまま、やり過ごせ」
「そんなっ!」
「いいかね、手を出すな!絶対に手を出すなっ!以上っ!」何か言いかけた和を無視
して、通話を切った。
門倉の異様な雰囲気に、そばの副総監が唖然とした顔で見つめていた。
その視線を拒絶するように、睨みつけた。
続 く
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朴と顔を合わせた。前から行く。そう、合図を送ってきた。拓馬も了解のサイン
を出すと後ろに下がった。探索の残っていた右側の通路だった。
手前で、瀬名がしゃがみ込んでいた。短機関銃を通路の先に向けている。拓馬を
認めると奥を指さした。
「中央通路の制御室、確認を頼む」
彼に指示を出し、奥へ進む。
床に、ぽつんと黒い塊が落ちていた。
ダットサイトがついたベレッタ。SITの使っている銃だ。スライドが開いた
状態になっている。弾丸は撃ち尽くされていた。その先に血痕が落ちている。照明
の下で、生々しいほどにきれいな赤い色をしていた。血の筋は、奥へと続いている。
赤い線は生命の尽きていくように、細く、途切れ途切れにかろうじて延びていた。
その先に秋奈の背中が見えた。向かいには朴がいた。立ち尽くす二人の視線は、下
を向いている。秋奈の肩越しに、下を覗き込んだ。
誰かが仰向けに倒れていた。
その顔の白さに、目を奪われた。
こいつなのか?その姿を見た率直な感想だった。巣窟に潜む凶暴な魔物の正体が、
そこにあった。
無造作に後ろへ束ねた黒髪の下にある顔は、まだ十代と思えるほど、あどけなか
った。学校の制服を着て、鞄を提げていれば、そこら辺にいる真面目な女子学生に
見える。大勢の警察官の命を奪った殺人鬼の正体がこの少女だったとは。なんとも
やり切れない思いが、足元からじわじわと侵食してくる。
上下黒ずくめの服を着た身体は、小さく華奢だった。艶やかな黒髪を後ろに
束ねていなければ、少年と見間違いそうになる。右手に細身のナイフが握られて
いた。刃には血がこびり付いている。しっかりと握りしめた手は、最後の最後
まで抵抗し続けた執念を誇示していた。床に染み渡るように、背中から緩やかな
赤い輪が拡がっていく。
「出会い頭にいきなり発砲してきました」
秋奈は緊張しているのか、普段の彼らしくない低く、掠れた声だった。
「相手はすぐに弾切れになり、銃を捨てて逃げました。その背中に二発、撃ち
込みました」
瀬名がやってきた。
「ヘルメットと銃は、自分が潜んでいるようにみせる偽装でしたよ」
報告しながら、足元の光景に目にくれた。その目が固まった。
「このコ…なんですよね?」
声が戸惑いに揺れていた。「SITやSAT相手に殺しまくっていたのは…」
瀬名が、今の心境を代弁してくれた。それに答える気力もなく、ただ頷いてみせた。
秋奈が朴に声をかけた。「朴やん、大丈夫か?」
下を見つめたまま朴は、手でOKを示した。その手でヘルメットの側面を突付いた。
斜め一文字に傷がついている。銃弾が掠めた跡だ。間一髪。獣のつめ跡のような傷が
その状況を物語っていた。さっきから食い入るように女を見つめたままだった。あまり
にも見つめているので心配になり、声を掛けた。
「朴やん、お疲れさん」
彼に反応はなかった。手を伸ばし、その肩をぽんと軽く叩いた。
「羨ましいです」
彼が口にしたことの意味が分からず、その顔を見た。「こんな死に方ができた彼女が、
俺には羨ましいです」
大きなことを成し遂げ、死んだことに共感しているのか。
「俺には理解できんね」
首を横に振る拓馬に、朴は物寂びしそうに鼻を鳴らした。
少女の死に顔をよく見た、大きな目標を成し遂げたような、満足感と安らかさが
あった。それを見ていると、虚しさが襲ってきた。テロ事案を収めた達成感はなか
った。目標をこなすことに、死体の数が増えてくる。それに比例するように虚しさ
も募っていく。それだけだった。
いつまでも、感傷に浸ってはいられなかった。最も重大な関門が待っていた。
「各自、異常はないか?」拓馬の問いかけに、全員から異常なしの声が返ってきた。
「撤収しよう」
拓馬は無線で、堀内を呼び出した。
飛びつくように無線に出た堀内へ、制圧完了を伝えた。報告を聞いた堀内は、
浮き足立った様子で「警備部長に替わります」と言い放ち、そのまま待たされた。
ヒグマのような体格をした警備部長を思い出した。あの融通の利かなそうなヒグマ
が、篭城犯の正体を見て、さぞかしうろたえるだろうと思うと、いささかうんざり
してきた。
55
銃声が鳴り止んで、しばらく経つ。
制圧完了の知らせは、まだ来なかった。
「まさか、また失敗したんじゃ…」隣の副総監が蒼ざめた顔で呟いた。
不安を色濃くする周囲の中、門倉は静かに現場からの報告を待った。
横のモニターでも、テレビ中継のレポーターたちが蜂の巣を突付いたように、
騒ぎ立てている。
「迫です」
その知らせは、不意にきた。
「制圧しました。被疑者は射殺されました。被疑者は死亡。繰り返します被疑者は
死亡」
おお、という歓声が、突き上げるように上がった。沸き立つ周囲に、門倉は呑み
込まれる事はなかった。制圧完了よりも、重要なことがあった。
「特別編成部隊はどうなった?」
「全員無事です。現在、徹収に入っています。車に乗り込み、間もなく出発します」
「そうか。ご苦労様」
喜びも安堵もなかった。疲労と敗北感が、双肩に重く圧し掛かってくる。交信を
終えると、予定していた行動に移った。携帯電話を出すと、和を呼び出した。
「突入作戦は成功した。篭城犯は制圧された」
「こちらも確認しました」
「間もなく、特別編成部隊がそちらに向かう」
「車両は判っております。標的を確認次第、確保致します―」
「総監っ!」
オペレーターのひとりから声が掛かった。
「官房長官からお電話です!」
ぎくりとした。なぜ、こんなときに?
意図的に電話をしてきたとしか思えなかった。
「至急のとのことです!」
諦めて、内線ボタンを解除した。
「突入作戦成功おめでとう」その間延びした話し方に苛立った。今はそれどころ
ではない。
「ありがとうございます。申し訳ありませんが、今は立て込んでおりまして。改めて
こちらからご報告を差し上げます」
「うん、わかってるよ。ただ、ひと言だけ言いたくてね」
極めて穏やかながら、これだけは言わせろ。そんな強引さがあった。
「彼ら、ちゃんと返してね。拘束なんてしちゃだめだよ」
携帯を落としそうになった。彼らが誰を指すか、言われるまでもない。
「私の立場。君の立場、警察の立場。考えてね。彼らを拘束しようなんてことに
なったら大変なことになるからね」
悪魔の呪詛のように聞こえてきた。山羊の顔をした、あのパフォメッドが迫ってくる。
返す言葉がない。ただ沈黙するしかなかった。
「君も忙しそうだから。じゃあな」向こうから、さっさと切られた。
眩暈が襲ってきた。総合対策室の壁が吹き飛び、幹部やスタッフも消え失せた。
門倉は何もない無の空間に、ひとり佇んでいた。
手の内を読まれていた。尾身は、門倉がこういう行動に出るのを予測していた。
議員会館での、尾身の目を思い出した。
俺の目は何でも、お見通しだぞ。
警察という組織にいるうちは、そして、あの悪魔が政界に君臨している限りは
逃げることはできない。何をしようと、その先には彼の手が立ち塞がる。
総監。遠くから誰かが呼んでいる。急に周囲の喧騒が戻ってきた。
「総監っ!」
携帯から、和が叫んでいる。
汗で濡れた携帯を持ち直した。唾を呑み込んでから、その言葉を発した。
「中止だ…」
「はいっ!?」
甲高い和の声は、混乱を呈していた。
「中止だ。確保は取りやめにする」
和の息を呑む音が、ここまで聞こえてきた。
「どういうことですか?奴らはもうすぐ来ます!ここで中止など有り得ないでしょう!」
悲鳴に近い叫びだった。
「状況が変わった。そのまま、やり過ごせ」
「そんなっ!」
「いいかね、手を出すな!絶対に手を出すなっ!以上っ!」何か言いかけた和を無視
して、通話を切った。
門倉の異様な雰囲気に、そばの副総監が唖然とした顔で見つめていた。
その視線を拒絶するように、睨みつけた。
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拓馬の声を合図に、ドアの鍵穴に鍵が差し込まれた。
小さい金属音。班員は、ゆっくりとドアを開いた。
朴を先頭に、拓馬たちは物音を消しながら、魔物の棲み処へと、足を
踏み入れた。
先頭で入った朴は、壁のスイッチを探していた。すぐに見つかった。
スイッチは壊されることもなく、無事だった。
全員が中に入ったのを見届けて、朴がこちらを見た。
GO。
合図を出した。
明かりの点いた工場内には、二機の大型輪転印刷機が幅を利かせていた。
端に置かれた棚がずれていたり、床にインキの缶や梱包材らしいのが散乱
している。
明るくなったことで相手は、こちらが突入してくることは判る筈だ。この
どこかで迎え撃つ体制を整え、様子をじっと伺っている。ざっと見た限り
では二台の印刷機に阻まれて、対象の姿は確認できなかった。内部のレイア
ウトは演習で使用した浦和の印刷工場と大きな相違はなかった。通路は左端
中央、右端。
秋奈が中央通路を指さした。
車一台分は通れるような比較的に広いそこに、人の姿を見つけた。この
建物の真ん中辺りに位置するところにうつ伏せになっている。着ている制服
から、行方不明になっている館林巡査長だと判った。ここから見る限りでは
生態反応は見受けられない。人形が投げ出されているようだった。
朴が合図をした。
左。前進。打ち合わせ通り、左側から潰していくということだ。
腰を落とした朴が短機関銃を構えて、ゆっくりと進み出した。遠のいて
いく背中に、囮役を買って出た気迫と殺気を放っていた。間隔を置き、拓馬
も続いた。左側は壁。工具を置いた棚や、印刷物の束が積まれている。右
には印刷機が立ちはだかっている。人ひとりが通るのが、やっとだった。
鉄骨や計器類が剥き出しになった機械には、人が隠れる箇所はいくらでも
ある。拓馬には、こういう条件下での行動は経験があった。海上保安庁の
SSTに在職していた頃には、船舶検索という狭く、入り組んだ船内での
近接戦闘の訓練がそれだ。目線の位置。確認する箇所。
朴の足が止まった。探るように周囲を見回している。拓馬も朴の頭上
から周囲まで、目を配った。
再び、朴は歩き出した。彼が足を止めた理由は、その場所に来てわかっ
た。
床や壁に血痕が飛び散っていた。薬莢も幾つか確認できた。SATが
襲撃された現場のひとつだ。一人が死亡、二人が負傷した。ここで襲撃
されたSATの阿鼻叫喚が想像できた。確かにここで不意討ちを食らえば
ひとたまりもない。
朴は突き当たりまで差しかかろうとしていた。この通路はクリアできそう
だった。
朴が止まった。
止まれ。
合図がきた。後方にも合図を送った。
朴の左手のひとさし指が、しきりに下を示していた。そして、機械のある右側
を指した。
彼の足元に変わった様子はなかった。目を凝らす。
あった。
朴の足元、床から十センチほどの位置に細い糸が張ってある。機械と壁の
置かれた棚も結んである。朴は慎重に糸を跨いだ。突き当たりに行くと、周囲
を警戒した。
拓馬も、糸の張ってある場所に足を踏み入れた。右側に視線を向けた。
背中に悪寒が走った。
機械と機械の間に空間がある。その間に、一、二センチ幅の細長い鉄版が
しなるように反り返った形でこちらを向いていた。中央に棒状のものが固定
されていた。先端が尖っている。手製の弓矢のように見えた。
ブービートラップ。
篭城犯の仕掛けたものだ。細部は見えないが、足元の糸を引っ掛けると
矢が放たれる仕組みだろう。
糸を跨ぎ、後ろに合図を送った。朴の待つポイントに向かう。
通路の終わりに差し掛かる場所。警戒が緩む辺りに罠を設置する。心憎い
演出だ。腹が立つのを通り越し、拍手を送りたくなる。
壁を背にして、辺りに気を配る朴に並んだ。
間もなく、瀬名が到着した。
「係長、あれ見ました?」鼻息が荒い。
「戦場へようこそ」
拓馬が言うと、瀬名は肩を竦めた。
殿(しんがり)の秋奈が来ると、隣の中央通路に移った。
機械の影から様子を伺う。館林の身体は同じ所にあった。
朴は合図を出すと、中央通路に足を踏み入れた。左側の機械寄りに進んで
いく。
少し間を置くと、拓馬は、朴と反対の右側の機械沿いに歩み出した。
相手は、今この瞬間にも狙っている。どこかに身を潜め、こちらの様子を
見つめている。隙あらば、容赦なく噛み付いてくる。山場は館林のいる場所だ。
倒れている相手が、どういう状況か確認する。そこに注意が逸れて、隙が
生まれる。閃光手榴弾は使い果たしている。まともな武器は拳銃しかない。
どう出てくるか。
朴は、倒れている館林のそばに到達した。一瞥しただけで、周囲を確認して
いる。
彼の左手が動いた。
死亡。館林は死んでいた。張り詰めた緊張感は死者を悼む余裕を与えなかっ
た。館林の周囲に不審なものはなかったようだ。朴は前進を再開した。
進み出した足が固まった。
横の鉄骨の影に身を寄せ、かがみ込んだ。何かを見つけたようだ。合図を
出してくる。
対象発見。
朴に目を配りながら、インカムで背後の二人に指示を出した。現状の位置
にて、周囲を警戒。
心の中で、何かが引っ掛かった。そのまま、前をゆっくりと進んでいる
最中にも、脳は警告を発し続ける。
おかしい。
おかしいぞ。注意しろ。注意しろ。
朴の真横に来た。朴が指さす。
拓馬のいる印刷機の五メートルほど先に、制御室らしい小部屋のようなもの
がある。鉄柵で囲っただけの簡素なものだ。その扉の隙間から銃口らしいもの
が突き出ていた。更によく見ると、細い隙間からヘルメットやタクティカル
ベストの一部が確認できた。
おかしいぞ。脳が叫ぶ。簡単過ぎないか?
罠?
朴を振り返った。
彼の首筋辺りに、ポツンと赤い点が見えた。レーザーポイントの標準。
罠!罠だ。
拓馬が叫ぶ前に、朴も動いた。
「朴っ!」
空気が弾けた。
銃声の方向に、自分の銃口を向けた。
朴のいた場所の斜め上。くずんだ巨大なローラーとローラーの間に、黒い
人影が見えた。
撃つ。
撃った。
撃ちまくった。通路の中央に身を投げた朴も撃つ。
応戦する相手の銃声と交錯した。木霊する銃声は狂想曲(プレリュード)と
化して、工場内に響き渡った。
弾けるような金属音に、拓馬は物陰に首を引っ込めた。真っ直ぐに飛んで
くる弾丸より、気まぐれに飛んでくる兆弾の方が怖い。
硝煙のむかつく臭いが立ち込める中、顔を上げると相手の姿はなかった。
機械の裏側に廻り込め。背後の秋奈に、指示を出した。
朴に目を投げた。そろそろと起き上がるところだった。
大丈夫。左手でサインを送ってきた。それでも、ヘルメットの横側を擦って
いる。
銃声。
数発が重なった。
続 く
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小さい金属音。班員は、ゆっくりとドアを開いた。
朴を先頭に、拓馬たちは物音を消しながら、魔物の棲み処へと、足を
踏み入れた。
先頭で入った朴は、壁のスイッチを探していた。すぐに見つかった。
スイッチは壊されることもなく、無事だった。
全員が中に入ったのを見届けて、朴がこちらを見た。
GO。
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明かりの点いた工場内には、二機の大型輪転印刷機が幅を利かせていた。
端に置かれた棚がずれていたり、床にインキの缶や梱包材らしいのが散乱
している。
明るくなったことで相手は、こちらが突入してくることは判る筈だ。この
どこかで迎え撃つ体制を整え、様子をじっと伺っている。ざっと見た限り
では二台の印刷機に阻まれて、対象の姿は確認できなかった。内部のレイア
ウトは演習で使用した浦和の印刷工場と大きな相違はなかった。通路は左端
中央、右端。
秋奈が中央通路を指さした。
車一台分は通れるような比較的に広いそこに、人の姿を見つけた。この
建物の真ん中辺りに位置するところにうつ伏せになっている。着ている制服
から、行方不明になっている館林巡査長だと判った。ここから見る限りでは
生態反応は見受けられない。人形が投げ出されているようだった。
朴が合図をした。
左。前進。打ち合わせ通り、左側から潰していくということだ。
腰を落とした朴が短機関銃を構えて、ゆっくりと進み出した。遠のいて
いく背中に、囮役を買って出た気迫と殺気を放っていた。間隔を置き、拓馬
も続いた。左側は壁。工具を置いた棚や、印刷物の束が積まれている。右
には印刷機が立ちはだかっている。人ひとりが通るのが、やっとだった。
鉄骨や計器類が剥き出しになった機械には、人が隠れる箇所はいくらでも
ある。拓馬には、こういう条件下での行動は経験があった。海上保安庁の
SSTに在職していた頃には、船舶検索という狭く、入り組んだ船内での
近接戦闘の訓練がそれだ。目線の位置。確認する箇所。
朴の足が止まった。探るように周囲を見回している。拓馬も朴の頭上
から周囲まで、目を配った。
再び、朴は歩き出した。彼が足を止めた理由は、その場所に来てわかっ
た。
床や壁に血痕が飛び散っていた。薬莢も幾つか確認できた。SATが
襲撃された現場のひとつだ。一人が死亡、二人が負傷した。ここで襲撃
されたSATの阿鼻叫喚が想像できた。確かにここで不意討ちを食らえば
ひとたまりもない。
朴は突き当たりまで差しかかろうとしていた。この通路はクリアできそう
だった。
朴が止まった。
止まれ。
合図がきた。後方にも合図を送った。
朴の左手のひとさし指が、しきりに下を示していた。そして、機械のある右側
を指した。
彼の足元に変わった様子はなかった。目を凝らす。
あった。
朴の足元、床から十センチほどの位置に細い糸が張ってある。機械と壁の
置かれた棚も結んである。朴は慎重に糸を跨いだ。突き当たりに行くと、周囲
を警戒した。
拓馬も、糸の張ってある場所に足を踏み入れた。右側に視線を向けた。
背中に悪寒が走った。
機械と機械の間に空間がある。その間に、一、二センチ幅の細長い鉄版が
しなるように反り返った形でこちらを向いていた。中央に棒状のものが固定
されていた。先端が尖っている。手製の弓矢のように見えた。
ブービートラップ。
篭城犯の仕掛けたものだ。細部は見えないが、足元の糸を引っ掛けると
矢が放たれる仕組みだろう。
糸を跨ぎ、後ろに合図を送った。朴の待つポイントに向かう。
通路の終わりに差し掛かる場所。警戒が緩む辺りに罠を設置する。心憎い
演出だ。腹が立つのを通り越し、拍手を送りたくなる。
壁を背にして、辺りに気を配る朴に並んだ。
間もなく、瀬名が到着した。
「係長、あれ見ました?」鼻息が荒い。
「戦場へようこそ」
拓馬が言うと、瀬名は肩を竦めた。
殿(しんがり)の秋奈が来ると、隣の中央通路に移った。
機械の影から様子を伺う。館林の身体は同じ所にあった。
朴は合図を出すと、中央通路に足を踏み入れた。左側の機械寄りに進んで
いく。
少し間を置くと、拓馬は、朴と反対の右側の機械沿いに歩み出した。
相手は、今この瞬間にも狙っている。どこかに身を潜め、こちらの様子を
見つめている。隙あらば、容赦なく噛み付いてくる。山場は館林のいる場所だ。
倒れている相手が、どういう状況か確認する。そこに注意が逸れて、隙が
生まれる。閃光手榴弾は使い果たしている。まともな武器は拳銃しかない。
どう出てくるか。
朴は、倒れている館林のそばに到達した。一瞥しただけで、周囲を確認して
いる。
彼の左手が動いた。
死亡。館林は死んでいた。張り詰めた緊張感は死者を悼む余裕を与えなかっ
た。館林の周囲に不審なものはなかったようだ。朴は前進を再開した。
進み出した足が固まった。
横の鉄骨の影に身を寄せ、かがみ込んだ。何かを見つけたようだ。合図を
出してくる。
対象発見。
朴に目を配りながら、インカムで背後の二人に指示を出した。現状の位置
にて、周囲を警戒。
心の中で、何かが引っ掛かった。そのまま、前をゆっくりと進んでいる
最中にも、脳は警告を発し続ける。
おかしい。
おかしいぞ。注意しろ。注意しろ。
朴の真横に来た。朴が指さす。
拓馬のいる印刷機の五メートルほど先に、制御室らしい小部屋のようなもの
がある。鉄柵で囲っただけの簡素なものだ。その扉の隙間から銃口らしいもの
が突き出ていた。更によく見ると、細い隙間からヘルメットやタクティカル
ベストの一部が確認できた。
おかしいぞ。脳が叫ぶ。簡単過ぎないか?
罠?
朴を振り返った。
彼の首筋辺りに、ポツンと赤い点が見えた。レーザーポイントの標準。
罠!罠だ。
拓馬が叫ぶ前に、朴も動いた。
「朴っ!」
空気が弾けた。
銃声の方向に、自分の銃口を向けた。
朴のいた場所の斜め上。くずんだ巨大なローラーとローラーの間に、黒い
人影が見えた。
撃つ。
撃った。
撃ちまくった。通路の中央に身を投げた朴も撃つ。
応戦する相手の銃声と交錯した。木霊する銃声は狂想曲(プレリュード)と
化して、工場内に響き渡った。
弾けるような金属音に、拓馬は物陰に首を引っ込めた。真っ直ぐに飛んで
くる弾丸より、気まぐれに飛んでくる兆弾の方が怖い。
硝煙のむかつく臭いが立ち込める中、顔を上げると相手の姿はなかった。
機械の裏側に廻り込め。背後の秋奈に、指示を出した。
朴に目を投げた。そろそろと起き上がるところだった。
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53
籠城現場の裏手から少し離れた細い通りに、和の乗った黒のワンボックス
車は入った。後ろには数台の車列が続いている。いずれも地味な国産車だっ
た。
立ち入区域から外れていたが、警戒中の警官たちの姿があった。和の
率いる車列は散らばるように、道路脇へ滑り込んだ。その様子を見ていた
警官のひとりが歩み寄ってきた。運転席の窓ガラスを軽く叩く。
「ちょっと、運転手さん。開けてもらえる?」
ぞんざいな声が飛んできた。中を伺う、その目は長時間の警戒態勢での
疲労のせいか刺々しかった。
和は、スモークのパワーウィンドウを下げると、警官の鼻先に、警察手帳
を突きつけた。
思いがけない展開に、警官は目を丸くした。
「特殊捜査班の和だ」
「ご苦労様です!」和が名乗ると、警官は背筋を伸ばし敬礼で返した。
「後方支援で、ここへ配備に着くよう指示があった」
警官は神妙な面持ちで頷いた。
「今停車した車両は全て、うちの班のものだ。我々はここにいるが気に
しなくていい。貴方がたは持ち場で引き続き、警戒にあたって下さい」
「は、分かりました」
警官は敬礼をすると、持ち場に戻っていった。
通りに目を移した。片側一車線ずつの細い道だ。警官の目があるせいか、
特殊班の五台の覆面車以外、車は殆ど止まっていない。現場の裏手から、
通りに出るにはこの道を通るしかない。特別編成部隊が無事に仕事を
終えて撤収するときには、必ずここを通る。対象車両が向かってきた
ときには、前後を覆面車で封鎖するつもりでいた。
運転席の周りに、眼付きの険しい男たちがぞろぞろと集まってきた。
その数十六名。和が掻き集めた特殊班の班員だ。皆、ジャンパーや
ジャージといった、目立たないラフな格好をしていた。特別編成部隊
の人数は四人。こちらは総勢十七人で待ち構えていた。用心のために
全員が拳銃を携帯し、防弾チョッキを装着していた。抵抗されるの
だろうか。そこが気がかりだった。相手も銃を所持している。警察
に発砲することがあるのだろうか。いざというときは拳銃を抜き、
威嚇するしかない。十七の銃口を前にすれば、相手もおとなしく
投降せざるを得ない。そう考えていた
車から顔を覗かせた和は、皆を見渡した。
「連絡がきたら、手筈通りだ」
和の指示に、班員たちは無言で頷いた。
54
SATの手厚い洗礼を受けた拓馬たち、特別編成部隊は、裏口の方に
きた。
そこにも、警戒任務と偵察行動中のSATと応援の銃器対策レンジャー
たちの姿があった。一応に彼らからも、冷たい視線を浴びることになった。
隊員たちが囲む先には、アルミ製のドアがあった。
堀内が指さす。
「ここから、入ることになります」
何の変哲のないドアだった。この先に、SITやSATを撃破した篭城犯
がいるかと思うと、ドアの向こう側にある世界が魔物の棲む巣窟に思えて
きた。
「工場内の照明は、間違いなく点きますよね」
拓馬は、堀内に念押しした。
「仮修復だけは済ませてあります。裏口を入って、すぐ横の壁にスイッチ
があります。万が一、破壊されている場合でも、配電室から点灯すること
は可能です」
「相手の位置は特定できませんか?」
堀内は、そばにいた監視班の隊員に目をやった。
隊員が、地面に拡げているのは、電磁波探査装置だった。装置のモニター
とヘッドホンで、壁に当てたアンテナから、室内に潜む人間の生存反応を
拾うというものだ。
「中にある印刷機が防壁になって、モニターもマイクにも反応がありませ
ん」
ヘルメットの下から、憮然とした表情を見せ、彼は答えた。
「長時間、相手は全く動いていないようです」
「それじゃ、特定できないということですか」
「そういうことになりますね」隊員は口惜しそうに頷いた。
やはり、手探りで相手を探すことになりそうだ。
堀内に向き直った。
「ドアを開けて下さい。これから突入します」
緊張に強張った顔で、堀内は監視班員に目配せをした。班員は、鍵を
取り出した。
「先程お話した通り、終了次第、堀内警部補宛てに連絡をいれますので、
お願い致します」
堀内は敬礼をした。
「それでは、お気を付けて」
事務方という立場からか、この男には、特別編成部隊に対する敵対心がない
ようだ。無類のお人好しらしい。
拓馬は、チームのメンバーに向き直った。
「各自、装填及び点検」
その声に、各自は一斉に吊り紐でかけていた短機関銃、そして、ホルスター
の拳銃に、弾丸を装填した。
「よし」
「よし」
「よし」
確認の声が掛かる。準備は整った。
「お願いします」
拓馬の声を合図に、ドアの鍵穴に鍵が差し込まれた。
小さい金属音。班員は、ゆっくりとドアを開いた。
続 く
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籠城現場の裏手から少し離れた細い通りに、和の乗った黒のワンボックス
車は入った。後ろには数台の車列が続いている。いずれも地味な国産車だっ
た。
立ち入区域から外れていたが、警戒中の警官たちの姿があった。和の
率いる車列は散らばるように、道路脇へ滑り込んだ。その様子を見ていた
警官のひとりが歩み寄ってきた。運転席の窓ガラスを軽く叩く。
「ちょっと、運転手さん。開けてもらえる?」
ぞんざいな声が飛んできた。中を伺う、その目は長時間の警戒態勢での
疲労のせいか刺々しかった。
和は、スモークのパワーウィンドウを下げると、警官の鼻先に、警察手帳
を突きつけた。
思いがけない展開に、警官は目を丸くした。
「特殊捜査班の和だ」
「ご苦労様です!」和が名乗ると、警官は背筋を伸ばし敬礼で返した。
「後方支援で、ここへ配備に着くよう指示があった」
警官は神妙な面持ちで頷いた。
「今停車した車両は全て、うちの班のものだ。我々はここにいるが気に
しなくていい。貴方がたは持ち場で引き続き、警戒にあたって下さい」
「は、分かりました」
警官は敬礼をすると、持ち場に戻っていった。
通りに目を移した。片側一車線ずつの細い道だ。警官の目があるせいか、
特殊班の五台の覆面車以外、車は殆ど止まっていない。現場の裏手から、
通りに出るにはこの道を通るしかない。特別編成部隊が無事に仕事を
終えて撤収するときには、必ずここを通る。対象車両が向かってきた
ときには、前後を覆面車で封鎖するつもりでいた。
運転席の周りに、眼付きの険しい男たちがぞろぞろと集まってきた。
その数十六名。和が掻き集めた特殊班の班員だ。皆、ジャンパーや
ジャージといった、目立たないラフな格好をしていた。特別編成部隊
の人数は四人。こちらは総勢十七人で待ち構えていた。用心のために
全員が拳銃を携帯し、防弾チョッキを装着していた。抵抗されるの
だろうか。そこが気がかりだった。相手も銃を所持している。警察
に発砲することがあるのだろうか。いざというときは拳銃を抜き、
威嚇するしかない。十七の銃口を前にすれば、相手もおとなしく
投降せざるを得ない。そう考えていた
車から顔を覗かせた和は、皆を見渡した。
「連絡がきたら、手筈通りだ」
和の指示に、班員たちは無言で頷いた。
54
SATの手厚い洗礼を受けた拓馬たち、特別編成部隊は、裏口の方に
きた。
そこにも、警戒任務と偵察行動中のSATと応援の銃器対策レンジャー
たちの姿があった。一応に彼らからも、冷たい視線を浴びることになった。
隊員たちが囲む先には、アルミ製のドアがあった。
堀内が指さす。
「ここから、入ることになります」
何の変哲のないドアだった。この先に、SITやSATを撃破した篭城犯
がいるかと思うと、ドアの向こう側にある世界が魔物の棲む巣窟に思えて
きた。
「工場内の照明は、間違いなく点きますよね」
拓馬は、堀内に念押しした。
「仮修復だけは済ませてあります。裏口を入って、すぐ横の壁にスイッチ
があります。万が一、破壊されている場合でも、配電室から点灯すること
は可能です」
「相手の位置は特定できませんか?」
堀内は、そばにいた監視班の隊員に目をやった。
隊員が、地面に拡げているのは、電磁波探査装置だった。装置のモニター
とヘッドホンで、壁に当てたアンテナから、室内に潜む人間の生存反応を
拾うというものだ。
「中にある印刷機が防壁になって、モニターもマイクにも反応がありませ
ん」
ヘルメットの下から、憮然とした表情を見せ、彼は答えた。
「長時間、相手は全く動いていないようです」
「それじゃ、特定できないということですか」
「そういうことになりますね」隊員は口惜しそうに頷いた。
やはり、手探りで相手を探すことになりそうだ。
堀内に向き直った。
「ドアを開けて下さい。これから突入します」
緊張に強張った顔で、堀内は監視班員に目配せをした。班員は、鍵を
取り出した。
「先程お話した通り、終了次第、堀内警部補宛てに連絡をいれますので、
お願い致します」
堀内は敬礼をした。
「それでは、お気を付けて」
事務方という立場からか、この男には、特別編成部隊に対する敵対心がない
ようだ。無類のお人好しらしい。
拓馬は、チームのメンバーに向き直った。
「各自、装填及び点検」
その声に、各自は一斉に吊り紐でかけていた短機関銃、そして、ホルスター
の拳銃に、弾丸を装填した。
「よし」
「よし」
「よし」
確認の声が掛かる。準備は整った。
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